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総合学術データベース:時評欄(69)ホ-ムペ-ジ用;池上惇「大国主義と小国主義-日本固有文化を生かす道とは-

はじめに-日本における中農育成思想の発展

 

日本における大国主義と小国主義

 

上田篤先生の御著書に『小国大輝論-西郷隆盛と縄文の魂』藤原書店、2012年がある。

出版記念の日に参加させていただいたので強く印象に残った。

明治維新、当時、近代化に当たって、大国主義で行くのか、中江兆民らが主張した、小国主義で行くのかについて議論があり、小国主義者たちは政治的に敗北して大国主義路線が定着した、とされている*。この著書では、西郷隆盛という、いわば、明治維新の中心人物が小国主義者であったと主張された点で非常に注目した。

小国主義は、帝国主義的な植民地確保論に対して、植民地放棄論を主張した点で、大正デモクラシ-期においては、石橋湛山らの論説として広く知られて来た**。

 

*田中 彰『小国主義―日本の近代を読みなおす』岩波新書、1999年参照。松永昌三松本三之介松沢弘陽溝口雄三井田進也編集『中江兆民全集』全17巻+別巻、岩波書店、1983-1986年。

**石橋湛山全集編纂委員会 編、新版 『石橋湛山全集』全16巻、東洋経済新報社、2010-11年。

 

澁澤栄一と尊徳仕法

いま、NHKの大河ドラマでも、澁澤栄一が取り上げられているし、西郷隆盛も登場するが、澁澤の思想形成における、二宮尊徳の影響については、まだ、話題となるほどのものはない。

しかし、関東出身で農民でもあり、小田原よりも、東で改革の志を持つものであれば、誰であれ、明治維新のころ、尊徳の影響を受けなかったものはないと思われる。

小国主義の代表的な論客であった、中江兆民は、フランスの第三帝政から学び、ルソーの翻訳家としても著名であった。フランスにおける、当時の思想的な潮流は、フランス大革命における農地改革によって独立自営農民を大規模に生み出し得たこと。彼らを基礎として、ナポレオンは新たな軍隊組織を生み出し、開明的な君主の存在を国民に説得して皇帝の座を得た。市民の権利を守る存在としての「テクノクラート(科学者や技術に詳しい官僚層と組んだ産業家)を束ねる開明的な君主」と「自由に営業し自由に生活する人々」との共生が一時期ではあるが、政治勢力のバランスの上で成立したのであった。

明治維新以前、澁澤栄一も幕府からの派遣でフランスに渡り、サン・シモン主義による、テクノクラート主導の産業振興政策、とりわけ、株式会社・合本による資本動員の思想に触れ啓発されている。

日本における二宮尊徳の思想と、フランスにおけるサン・シモンの思想とを比較すると、尊徳は徹底した「民衆の智慧」の開発者であり、サン・シモンは、テクノクラート重視の立場であった。

澁澤は、尊徳における「民衆の智慧」の結論ともいうべき「仕法による中農育成策」を熟知していたと考えられる。しかし、彼は、尊徳の中農育成方針ではなく、サン・シモンの「テクノクラート重視」思想を選択した。明治新当時、尊徳思想は、神道も、仏教も、儒教も、それぞれに長所を持つものとして、「神仏儒正味一丸薬」などの象徴的な言葉として普及していた。明治維新政府は天皇を現人神とする国家神道を統治の基軸にしたので、神仏儒正味一丸薬などという、すこしは、皮肉かもしれない表現を生かした、尊徳思想とは矛盾した。尊徳の弟子たちも自ら国家神道の道を歩む者として、ある種の転向を行い、延命が図られた。明治維新以降は、現人神である、天皇制に疑問を持つものは、反乱者として自ら死を選ぶか、あるいは、処刑されるか、テロに倒れるかなどの事態に直面せざるを得なくなってゆく。

澁澤も天皇の親政による「テクノクラート」基軸の産業振興策として明治政府の営業の自由に関する方針を積極的に推進したと思われる。渋澤が「富国強兵策」や、その財政基盤となった、重税政策と、どのようにかかわったのかは今後の解明に待つべきであるが、彼が西郷のように死を選ばず生きて日本経済の公正な秩序を確立する上で大きな貢献をしたことは事実であろう。死して尊徳の偉業を後世に伝えるべきか、生きて「営業の自由」を生かして日本経済における公正競争秩序に貢献するのか。この選択に迫られたとするならば、澁澤は後者の道を選んだのである。この道は、日本経済や経営における倫理の確立において、画期的な役割を果たしており、その意味では、彼が生きて社会に貢献したことは偉大な意味を持ったと考えられる*。

*十名直喜『サステナビリティの経営哲学-渋沢栄一に学ぶ』社会評論社、2022年参照。

他方、澁澤の著書のなかでも、経営関係の研究者に普及した、『論語と算盤』は、倫理と経営の基本的な関係を解明した著作として著名である。この書でも、西郷との出会いの場がある。読者は、そこでも、澁澤が「尊徳仕法」と呼ばれたものを熟知していたという事実に出会う。西郷は、この「尊徳仕法」について質問をするために、澁澤の家を訪ねたようにも取れる表現が使われている*。しかしながら、西郷にとって、尊徳の仕法は、尊徳の弟子であった、富田高慶からの学びであったこと。西郷は、尊徳仕法を熟知したうえで、澁澤を説得して「尊徳仕法の全国への普及」を目指していたと判断し得る資料も存在する。この資料については、本文で解明しよう。

*澁澤栄一著・守屋 淳  (翻訳)『論語と算盤』筑摩書房(新書)、2010年。

二宮尊徳の「仕法」は、当時の大商人が公共事業を担い、私的な所有者でありながら、彼らの経営ノウハウと、私有財産を「地域再生」のために差し出した。これは、「推譲」と呼ばれる。尊徳は人の生き方として「至誠・勤労・分度・推譲」を提唱していた。幕末期、幕府も、各藩も、深刻な財政危機に直面し、国家破産や藩の破産が迫っていた。まさに、この時期に、尊徳は「民間主導の公共事業」として、「仕法」を提起していたのである。

 

士農工商秩序の「対等化」への転換

 

幕藩体制における、国家破産の基本的な原因は「士農工商秩序の崩壊」であった。

徳川幕府は安定した支配秩序を構築するために「士農工商」という身分支配制度を生み出したはずであった。にも関わらず、この支配秩序自体が商工業の自由な発展によって崩壊し始めたのである。徳川幕藩体制下の農林漁業・職人型産業における生産力の進歩や生産物の市場への進出とひろがりは著しい。日本の農地の多くは、山林や沿岸部とつながっていて、災害多発の地でありながら、同時に、河川沿岸部は、山林の落ち葉や腐葉土、多様な生物の排出物、火山性土壌との混合などによって、改良を加えれば、豊かな大地であり得た。農民は、百姓と呼ばれたように、多様な職人技や仕事(農林漁業から建築、自然を生かした地域づくりなど)を身につけた人々が多数派であった。彼らの中でも、多くのものが武装して自衛し、あるいは、「士」に従って兵役に従事し優秀な戦闘員であることも多い。このような力量は、いつでも、「自衛」に転化し得る。例えば、日本の農民一揆は、しばしば、地域全体を巻きこむ一万人超の勢力を結集している。農民が宗教コミュニティとして、まとまると、領主を超える巨大な規模に成長する。石山本願寺に結集した農民たちが信長を始め戦国武将たちを苦しめた実績もある。

幕府は、士農工商という支配秩序を維持するために、「農」民を主軸とした支配体制を構築し、コメを現物で租税として徴収することによって、家臣団にコメを分配して彼らを養った。「士」は最上位における身分を表す。他方で、「農」はコメという現物で最上位の階層に配分される。「工」を担う職人層は、幕府や領主のために武器や道具、建築などを担わせ、「商」には贅沢を禁じて商業を幕府や藩が直接に行い、あるいは、独占組織を作らせて許可制にするなど、商業的な「自由市場」の発展を制限する方策を採用した。

ところが、幕末期になると、幕府の支配秩序が弛緩し始める。農家の中にも西日本を中心として農業生産力が向上し、厳しい重税の中でも「市場に出回るコメ」が増加する。職人型の産業も生産力が向上して市場に出回る商品が増加する。こられを背景として商人が仲介者として積極的に応答した。とりわけ、日本商人は、長崎を介してオランダなどと交易し、さらに、北海道の物産を調達して北前船による大量輸送を実行した。このような動きの背景には、各地の農民や職人同士、商人同士が学びあう機会が存在したことも特筆される。とりわけ、「お伊勢参り」のために、交代で資金を積み立てて、交代で、伊勢に参るとともに、農業を始め、商業や信用の活用なども含めて「学びあい育ちあう習慣」を持っていた。いわゆる民間の塾も、各地に広がり、さらに、「読み書き算盤」は、識字率を画期的に向上させた。江戸期、京都の石田梅岩の塾では、「商」の道の常として「倹約」だけでなく「布施」という相互支援システムを普及させ、幕末には、商人の支援活動によって「京都に行けば命が助かる」状況を生み出していた*。「士農工商」は、分業の形にすぎず、人としては対等であるとの思想も普及した。

*石川謙『石田梅岩と「都鄙問答」』岩波新書、1968年における横井小楠の指摘を参照。

 

このような状況を背景にして、尊徳はテクノクラートに依存せず、日本の民衆や商人が実践してきた、近江商人の「自分よし、相手よし、世間よし」の思想や、商人が徳を積み、本業を公共的な事業として、地域再生を実践し、「社会的な断絶を克服し格差拡大を防止する」方向にこそ、人々が歩むべき道があると考えていた。

この事実が持つ意味については、様々な研究が行われており、なお、解明を要する課題が多い。

今回は、この新たな民間公共財を形成し永続的に発展させようとした「尊徳の構想力における中農育成策」と、日本小国論との関係を解明しよう。(©2021、Jun、Ikegami)

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