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総合学術データベース:時評欄(67)ホ-ムペ-ジ用;池上惇「『出入り自由』の考え方と、これからの経営システム-所有概念における総有との関係をめぐって」
はじめに-岩手の学校づくりにおける自由な選択
「出入り自由の志向」
2017年に岩手で、「ふるさと創生大学」を創設したとき、地元の元校長、藤井洋治先生から、「この大学は『出入り自由で行きましょう』」というお話があった。
私は、従来、市民大学院で「出入り自由」を実行してきたので、もちろん、「賛成です」と、お応えした。
これまで、市民大学院を「出入り自由」としてきたわけは、まず、入学の時に、私なりだれが幹部の方が面接して入学していただける習慣だったので、市民大学院とは、どういうものかが互いに理解できていた、という実績があったからである。
市民大学院というと、なにか、資格を出せると思われて入学を希望されることがある。しかし、私たちの大学院は、資格ではなくて、「自分の可能性を生涯にわたって拓く」という理念があって、この話をすると、誤解がとけて、入学を辞退されることもあれば、では、挑戦するかと、改めて決意されることも多い。
岩手の教育風土には、京都と同じものを感じていたので、藤井先生のご提案は大賛成であった。
また、自由に出入りして、生涯学習・研究をすすめるというのは、学習人の実態に合っている。近頃は、昔と違って、職業間の移動が非常に激しい。新しい仕事に慣れるまで、少し、休みます、という方も増加した。昨日まで、いわゆる一流企業におられた方が、まだまだ、定年には、遠いのに、「どうも、性にあいません」と言われて転職される方。ちょっと、新たな資格を取ってきますからと、退職されて、お休みになることもある。
さらには、「あなた方の市民大学院とは合いませんから」と言われて去って行かれる方もあるが、何年かしてから、突然、「また、来ました」となる方々もある。
このような意味では「出入り自由」というのは、現代の職業事情に合っているし、市民大学院の理解を深めていただける機会ともなってきた。
岩手も、どうか、この「出入り自由」でお願いしたい。
パブリック・イノベーター業という提案
昨年、京都フォーラムの研究員に就職された、荒木一彰氏が、研究報告の際、「これからの職業は、パブリック・イノベーター業と呼べるのではないか。ある時は、経営人、ある時は、研究人、あるときは、公務員やNPOなど、『出入り自由』で移動しながら、一貫して、パブリック・イノベーター業を志すのです。」という内容のお話をされた。
全く、同感である。
最近、大阪で、株式会社、総務部の代表、村岡利幸先生からも、「これからの教育は『出入り自由』の若者を育て、できれば、天才と呼べるような、質の高さを求めたい」というご発言があり、注目している。
たしかに、生涯教育・研究を心がけていると、昔のような、固定化した職業を求める方々は減少していると感じる。むしろ、どの様な職業の方々でも、企業や経営に関心を持たれていて、さらに、「芸術文化性を持った、デザインと、科学技術を極めた機能」を総合化するようなイノベーションに関心を持たれる方々が増えた。
さらに、研究人、経営人、公共人を体験され、深められると、市民とお付き合いをされるとき、相手の生活体験や職業体験を理解して助言されたり、行動されたりすることも多くなる。これも、互いの教養を高め、学びあいや育ちあいを促進する。
そして、このような経営から生み出されるのは、何か。
それは、商品やサービスに触れた人々が、「健康・生きがい・社会的なつながりなどの公共性」を、商品やサービス、さらには、生活の場におけるインテリア・デザイン、個々人の個性的な生き方を通じて学び取り、これらの公共幸福を互いの暮らしの中に生かしあうこと。このことではないだろうか。
これは、個性的な差異からの学びである。このような場は、「学びあい育ちあう」場に発展する可能性がある。
このような商品やサービスを生み出す、新しい経営システムを「デザイン経営」と呼べるのかもしれない。ここに言う「デザイン」とは、意匠という意味だけではなく、経営における経営者の構想力や企画力、熟練や、技巧、判断力、機械との共生における、学習・研究の力量などをも意味する。
おかげさまで、私共のような、文化と経済を総合化しようとか、生活の芸術化や、学術化を推進しようとする人間にとっては、大変、よい時代になったのではないか、と、感じている。
デザイン経営への胎動‐動態的所有が生まれるとき-
このような時代の変化における、背景には、さまざまな要因が作用しているが、長い目で見ると、産業革命時代以来の大量生産・大量消費・大量廃棄の時代から、情報革命時代の「多品種少量生産:個性的消費:リサイクル・システム」への大転換がある。
さらに、この多品種少量生産体制としての情報化社会において、「疎外された人間」から「疎外されない、自由な人間への転換」を志向される市民が増加しつつあるのではないか。同時に、このような「自由志向人間」は、「本物の芸術や、本物の科学技術に触れて、「自己を啓発」されることが多くなった。
そうなれば、なるほど、自由志向と、疎外されたシステムとの矛盾もまた、より大きくなる。疎外された世界では、孤立すると排除される危険が大きくなり、排除されると、引きこもったり、死を選んだりすることも多くなるのではあるまいか。
このように、判断してきた。
私の見解では、このような大変化は所有にまで及ぶ。
一方では、自由志向人間にとっては、「私有でありながら、公共的な所有であるもの」や、「私有で寄付された公共的な資金が、また、私有に戻り、次の公共的な場に移動する」などの「総有」に固有の現象が起こると考えている{前回、時評欄(66)参照}。
共同研究者の中野健一先生は、尊徳における所有関係の「私的なもの」から「公共的なもの」とりわけ、推譲(自分の資産や財産、経営ノウハウなどを公共のために差し出すこと)という行為には、「動的所有論」と呼ぶのがふさわしいと、ご提言があった。
たしかに、そのとおりである。
私は、このような所有論を「動態的所有」と呼ぶことにした。「所有権が形式的には動くけれども、私的所有と公共的な所有との間には、合意があれば、「出入り自由」の原則があるからである。
では、疎外された人間にとっては、このような「出入り自由」な所有論は通用しないのであろうか。
例えば、経営者と労働者は「疎外された関係」においては非和解的なものとならざるを得ない。政府が所有する財産としての税はひとたび法律に従って納税されれば「政府のもの」であって、私人のものではなくなる。ここには、厳密な区分がある。
では、「疎外されない人間」「自由思考人間」が生まれるきっかけは何か。
このような人間が生まれるとすれば、彼/彼女は、私有財産をどのようにして形成するのか。そして、私有財産を公共の財産に転化する動きは、このような形成過程と、どのようにかかわっているのか。このように問いかけてみようではないか。
この問いに応えようとすれば、現代社会の私有財産形成には、「二つのタイプ」があることに気が付く。
一つは、従来は、中小零細企業と呼ばれてきた、企業群が情報技術の普及とともに、新たな起業主体や、小規模ながら世界企業となり得るような(ユニコ-ン企業などと呼ばれる)、まだ、株式市場に登場していない、創業10年以内にも関わらず、可能性が高い企業群が現れた。
私有財産の形成は、旧来の農林漁業や職人型産業を継承しつつ、情報技術の発展に支えられて新たな永続的発展へと向かっている。
このような動きは、従来型の中小零細企業群を刺激して、デザイン経営など、新たな経営手法を採用しつつ、大転換を図る企業が増加する。その一方で、従来は規模の経営を誇ってきた、大企業群は、大銀行を中軸とする「系列企業」「グループ企業」などの経営が「組織の巨大化に伴う官僚制」などの弊害を克服できずに、当面は、大規模合併などの手法で乗り切ろうとするが、長い目で見ると、破産、企業分割、系列解体、ガヴァナンス不良などの事態に直面し、中小零細企業への転換を余儀なくされる。
もう一つは、中小零細規模の非営利組織群の生成や発展である。一方では、労働者協同組合、消費協同組合、企業組合など、組合組織群が発展し、他方では、公益団体群である、NGO,NPO、社団、財団など、が、急増してくる。伝統的な慈善団体も、これらの動きに連動して、経営の変革などを志向する。かつては、「無認可」の保育所や共同作業所なども、次第に、法的な根拠を持った団体に移行する傾向を持つ。
これら二つの方向性は、生産システムや市場システムが大量生産・大量消費・大量廃棄型から、「多品種少量生産型」へと大転換を遂げる中で生み出されてきた。
このような大転換において、注目されるのは、私的な経営のなかに、「生産・流通・消費・リサイクル過程における「共同研究」「素材などの共同利用」「商品・サービスの共同消費」「リサイクル過程を視野に入れた情報共有」「市場における直接販売と、商品・サービス供給の歴史・労働条件・リサイクル過程情報などの共有システム」など、「共有の内部化」が起こっていることである。
そして、「共有の内部化」を生かしつつ、イノベーションを永続させ得る経営が追求されてくる。
このような経営では、私的な所有の特徴である「私的所有の下での個々人の個性や創造性を引き出せる自由な雰囲気」を醸成し、個性の差異から学びつつ、イノベーションを永続させた経営が「公正競争市場において」強い競争力を持つようになる。
「共同所有を内部化」した中小零細経営が「規模の経済」をもつ大企業経営を圧倒する時代。
この時代が幕を開けたのである。
創造的な芸術文化に触れて動態的所有関係を形成する
「共有の内部化」による、新たな経営や経済の台頭。
この問題を、より深く解明するために、今回は、日本における庶民文化の成立に焦点を合わせて見たい。
そして、人間が人生を「タテ」と「ヨコ」から学ぶ存在として位置付けてみようではないか。
まず、個人の人生を「タテ」に観て、「生死を超えて個人の知・情・意・気などから学び、現在に生かすこと」、および、人生を「ヨコ」に観て、「互いの個性の違いから学びあうこと」。
そして、「学びの場」を生み出しては、このような場から、芸術文化や、学術において、「創造的なもの」を誕生させる状況を想像してみよう。
そして、生み出されたもの、例えば、芸術文化・デザインなどに、私有者の外部から、消費者などの姿で、「創造的なもの」に触れることができたとしよう。
このためには、消費者の側に、創造性を受け止めて、享受する力量が育っていることも必要になるのではないか。
享受者は、触れることによって、「創造されたもの」と対話し、観察し、創造の過程である、生産の場の状況などを理解してゆく。
この過程で、自己の知・情・意・気を通じて、自己の文化資本や知的所有を充実させる契機をつかむ。
消費者が経営者であれば、彼は、個性的に生み出されたものを、職場で、どのようにすれば、ハーモニーが生まれるかを考える。
消費者が労働者であれば、「雇用されたもの」として、経営者と対等の場において、消費者として「創造性から学ぶ中で」、「自立のための所得や資産」を「自分のもの」として形成する力量を持つに至るのではあるまいか。
この新たな、創造的所有ともいうべきものは、知的な所有あるいは、文化資本(身体化された誠実さ、芸術的感性、科学的な知識や実験からの学び、地域の伝統文化、などなど)という形をとることもあれば、資産や所得の形をとることもある。
これらを私物化してしまわないで、自己の所有となっても、「分度」を心がけ、私生活における健康、いきがい、社会的なつながりなどを習慣化しつつ、節約や節制を実行する。そして、私有財産であっても、推譲によって「公共のもの」とし、「地元資産と合本」して地域再生や「まち・村づくり」を実行すること。
そして、その地に永続的な発展の構造を産み出せば、知的所有は、公共から個人に戻り、推譲された資金などは、寄付者に寄付金を返済する。
そして、私有化された知的所有や財産をもって、所有者は、次の「まち・村づくり」に向かって行く。
動態的な所有が生まれる過程の研究は、これまで、行われたことがないが、今回は、この課題に、日本の室町時代」を素材として挑戦してみよう。
(Ikegami,Jun©2021)