文化政策・まちづくり大学

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総合学術デ-タベ-ス:個人別研究内容(15)菊地裕幸 先生;「累進所得税と功利主義~シジウィックとエッジワース~」「地域開発政策の論理と帰結~一全総・新全総を中心に」:内容紹介;池上惇

経済学における効用理論の評価-シジウイック研究の道-

市民あるいは公人としてのモラルを持った人間を想定して現代社会を語る人々がある。

彼らは、経済学における効用理論が、1870年代以降、社会の対立と分裂の危機の中で、犠牲と効用の均等という経済法則を共通の基盤として、経済社会を成立させ、これによって、共通の利害関係を市民が認めた点を重視する。

また、このような普遍的な経済法則を基礎として、経済学が科学として成り立つことを認める。この法則は、誰もが経験して実行していることであり、この法則を活用しなければ、採算性という重要なものがなりたたず、市場も、家計も、会社の経営も、政府の予算も成り立たない。この共通性にこそ、市民社会が成り立つ基盤のひとつであることを認める。

が、そうだからといって、科学を根拠にして、解明された客観的な法則を、そのままで、現実社会に通用するものとは認めない。経済法則といえども、人間が主体となって、活動する市民社会においては、「人間が制御する」のであって、人間が経済法則に支配されることはない。これは、イギリス社会の、良き伝統である。

自然科学においても、同様であろう。自然科学の法則が物質を分析し研究した結果として解明されたとしても、その法則を活用するのは人間である。人間が市民としてのモラルをもって自然科学の法則を活用してこそ、人類は幸福な生活を送ることができる。水素爆弾のようなものを、自然科学者が生み出しても、それは、人を大量に殺戮するには役立つが、ひとりひとりの幸せを永続的に保障することはできない。そのように人命を脅かす発明や発見は、市民の良識にしたがって、制御され、核兵器禁止条約が国際的に合意されてこそ、人類は幸福を追求できる。

菊地先生が研究対象とされた、イギリス人、ケンブリッジ経済学の始祖、シジウイックは、現代の言葉に翻訳すると、そのような人物であった。

彼の著作には、Political Economy of Art という表現がある。この、Art は、普通の訳語では「規範」と訳されているが、正確を期すとすれば、「市民が持っている共通の倫理的な規範」あるいは「市民が良識として持っている文化・教養に支えられたモラル」というべきものであろう。これでは、訳語として長すぎるので「規範」が通用しているが。

イギリスの経済学を研究対象とすれば、経済法則を人間が主体となって、制御できるという考え方が必ず、議論の対象になる。これは、シジウイックから始まって、マーシャル、ピグ-、ロビンズへとつながる系譜であって、文化経済学者として有名な、アメリカ人、W.G.ボウモルも、この系譜に属する。

アメリカ経済学でも、コロンビア学派と呼ばれる、K.J.アローなどを基軸とし、現代では、J.E.シュテグリッツにつながる系譜は、この考え方を継承している。殻らに共通するのは、「経験による学習=learning by doing」という現代的な法則の発見であって、イギリス経験主義や、ゲーテに象徴されるドイツ人文・社会思想とも共生できる基盤を持つ。

かれらは共通して、市民や、市民社会を構成する諸個人の文化・教養モラルを尊重しており、さまざまな困難はあっても、いずれは、市民社会が飢餓や格差、社会的排除などの危険な傾向や分裂の危機を克服して、人間が主体となる社会がなりたつと考えている。

かれらが目指しているのは、自由な産業イノベーションと、所得・資産の再分配による公正競争基盤の確立である。これらによって「中流」社会が実現することを展望する。

これは、ある意味で、経済学における欧米から学ぶべき研究内容であり、より良き社会を実現するうえで、参考にすべき思想である。

 

効用学派の意義と限度-生存競争克服への道-

だが、彼らの展望は、イギリス社会、アメリカ社会などで、ともに、開けていないのも事実である。逆に、格差が拡大しているのである。

それは、なぜか。

これに答えるのは難しい。

ここは、私見で、ご勘弁いただきたい。

私の意見では、それは、効用理論そのものの中に、「生存競争を肯定する思想」が含まれているからでだと思っている。効用理論の開祖は、有名なベンサムである。

かれは、最大多数の最大幸福という有名な言葉によって、経済学の目標を提示した。

この世界では、個々人は、経済的に自立する力量を持つものと前提され、価格競争の中で、事業が淘汰されて、事業に才能のあるものが生き残り、事業に才能がないものが倒産することを認める。そして、倒産したものに、再起の機会を社会が提供すること。

そのために、必要ならば、所得や財産の再分配をも認める。そして、公正な競争条件が生み出されて、公正競争の中から産業イノベーションが起こり、より良い商品・サービスが、より低コストで供給できることを期待する。

しかし、人間の才能は、事業活動だけに限定されるものではない。芸術的才能があっても、ビジネスには、弱いかもしれない。これらの人々のことを、効用理論は無視しているのではないか。もしも、そうだとすれば、効用理論は生存競争を肯定しているのであって、芸術家が飢えて死ぬかもしれない。生存競争ではなく、あらゆる才能の人々を平等に扱う経済学が必要ではないのか。例えば、有名なケインズは、このように問題を提起して、「完全雇用」を政府の介入によって実現する市民社会を構想した。

すなわち、自由な産業イノベーションと所得の公正な分配をもってしても、克服できない、格差社会への傾向がある。

では、ケインズの言うように、完全雇用で実現できるのか。

それも、むずかしい、と、私は思う。戦後、各国で実験が行われたが、大半は、インフレが起こってうまくゆかなかった。財政規律もゆがんできて長い目で見ると税負担が増えて経済を圧迫する。

それでは、どうすればよいのか。

私見では、戸田海市にしたがって、教育・文化の問題に、取り組むべきだということになる。

端的に言えば、教育の格差や文化の格差を、これら、二つ(自由な産業イノベーションと所得再分配)をもってしても、克服できなかったという現実を見るべきだということにもなろうか。

現実に、欧米社会では、社会の特権階級を誕生させる仕組みが教育・文化システムのなかに、定着している。例えば、イギリスでは、ケンブリッジ・オクスフォード出身でなければ、フランスではグラン・ゼ・エコール卒でないと大政治家になるのは難しい。富裕者が文化を独占しているとは、フランスの社会学者、P.ブルデユーが指摘する通りかもしれない。

アメリカでは、エリートを育てる一流校の数は多いが、これらを出ていないと富裕層や大政治家の仲間に入るのは難しい。ただ、アメリカ社会は出版界となれば、低所得層出身でもベストセラー実現者になれる。

日本でも、エリートは、東大、京大といわれているが、制度的には、多くの私学に挑戦の機会があり、在野の学者層が厚くて、各地に教育家が存在し、東大や京大の出身者の中にも、教育格差や文化格差を克服しようと努力する人々が多い。これは、世界に稀なことである。

その理由は、明治維新までは、日本社会が識字率世界最高で、各地に民間の塾があって、「よみ・かき・そろばん」を教育する伝統文化が存在したからであると思われる。この伝統文化が地域社会では今でも生きているのである。

残念なことであるが、日本の学術界では、大正期の京大教授、故戸田海市、ロンドン大学教授、故森島道夫先生が、イギリス市民社会で研究を深められて、この道を見出されているものの、このような市民社会論を基礎として、経済学を研究し、教育や文化の格差に取り組もうという方々は教育や医学の領域には多いが、経済学では少数である。今後、研究の深化とともに関心が高まることを期待したい。

 

二本足の研究スタイル

菊地先生は、この困難な課題に挑戦されたおひとりであり、高い評価に値する研究成果を公表されてきた。

先生のご研究は、思想史や理論研究と、「足元の地域経済」の二本足である。

この姿勢は、経済学研究の王道といえるほど、多くの研究者が探求した道であった。

私も、若いころから、恩師、豊崎稔先生や、島恭彦先生に、この道の大事さをご教示いただき、必死の思いで、挑戦を続けてはきたが、まだ、まだ、道遠しである。

同時に、この道は険しくとも、日本における戦後の立法過程を見れば、公害防止基本法や、障がい者にかかわる基本立法は、日本市民が憲法を基礎に、国連の動向に支援されて、一歩一歩、基本的人権を守り、市民ひとりひとりの力量をエンパワ-メントできる法律をつくってきたことを示唆する。

日本における戦後市民社会への評価は、知識人層の間でも、バラバラである。

ある人は、日本は依然として、欧米市民社会には及ばず、ヨコのコミュニケーションが下手で、「タテ」とか、「ウエ」ばかり見て、昇進を考える前近代的な思考にとらわれているという人々も多い。

しかし、東日本大震災では、「困ったときはお互い様」という「結=ゆい」の精神を通じて、大災害にもかかわらず、その現実と向き合い、解決を志す市民が多いことを世界に示した。救援ボランティアの規模も非常に大きい。ボランティアをもてなす人々も決して少なくない。「ウエ」ばかり見ていたのでは、このような評価はあり得ない。

同時に、故森島先生が提起されたように、イギリスと日本を比べてみると、市民社会の成熟という点からみて、イギリスに学ぶことが多いのも事実である。

「欧米から学びつつ、欧米の弱点を克服する」。

私たちは、この課題に直面しているのである。菊地先生の御高作から、イギリス思想に学ぶべき点を、どうか、発見して、身につけていただきたい。同時に、イギリスの現実を見れば、克服できていない課題も見えてくる。「思想から学び、現実を直視する」こと。

これが必要な時代ではないかと思う。

わたくしは、1990年代に、アメリカ人、ボウモルから学んで、文化経済学を日本に導入した一人であるが、当時も、アメリカ社会で、文化格差を克服しようとした経済学者が存在したこと。

彼らの努力は1960年代から継続されているが、新自由主義が台頭すれば、絶えず、押し戻されて、生存競争肯定論が台頭してしまう。ここでも、アメリカの思想から学びつつ、現実を直視する必要があるのかもしれない。

これらの厳しい現実を踏まえて、日本における市民社会の一層の発展を実現するには、どうすればよいのか。

菊地先生の御高作を研究されて、ともに、考えていただければと思う。

(ケインズについては、論文「自由放任の終焉」、戸田海市については、戸田海市『社会政策論』弘文堂、1925年、戸田海市(1925)『工業経済論』弘文堂、1925年)

(©Ikegami, Jun 2020)

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