文化政策・まちづくり大学

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池上・総合学術データベース:時評欄(86)ホ-ムペ-ジ用;池上惇「A. スミスの人間観と、日本民俗学の開拓者精神-欧米と日本の比較」

Ⅰ はじめに‐経営学は人間疎外を克服できるか
-公共活動における二重性の発見

経営の現場から学ぶ

この一年間は、経営における現場の声を聴いて研究する機会が急激に増加した。コロナ化やウクライナ危機の影響で、オンラインによる学習機会が増えたことも影響している。
岩手の研究開発と事業化の関係、丹後地域における伝統産業の再生、京都・大阪・神戸などの経営実態を深く学習研究する機会があり、とりわけ、京都フォ-ラム、実践部会における中小零細企業の経営実践から多くのものを学ぶことができた。
例えば、京都フォ-ラム実践部会では、経営実践において、各位のご報告の中に、「生産者と消費者が互いに学びあう場を拓く」ことに焦点があった。丹後や岩手にも、同様の事例が多く、このような場を拓くことによって、「場を拓いた経営者が自己の持つ『排他的な利益追求主義』を克服して、社会的な課題、環境や社会問題と向き合い、消費者のニーズに応答しながら、公正な市場を拡大してゆく過程が観察できた。
さらに、京都フォーラムでは、経営実践の中で、「排他的な自己利益中心主義」を反省する「経営者自身の自己変革」に向けての取り組みが強烈な迫力を持って経営実践に大きな刺激を与えていることを実感した。
このような自己変革の動きは、哲学思想における「宇宙誕生から現代まで」の深い洞察や、一方では、大宇宙の中における自己の無知を自覚し、成功体験に囚われた傲慢さを超え、素直に、自然や人々から学んで、良識を身につけ、人格的な成長の可能性に注目すること。
また、経営の中で、絶えず、新たな可能性に耳目を集中して、将来構想を思い描き、経営の細部にまで精通して、熟練・技巧・判断力を高める。これらによって、それこそ、大地の底にまで根を張る自己の発達における可能性を発見してゆかれる。
哲学の深い学習力が経営の力量を倍増してゆく過程。
これらを実感させていただいた。ありがたいことであった。
このなかで、特に注目したのは、従来の市場を冷静に、公正に見てゆくと、「生活者の目から見る」という視点の重要性であった。
現代経済では、寡占と言われるように、大量生産主義が市場を支配している場合や、賃金や労働条件を極端に切り下げて利益を上げようとする場合など、公正な競争を排除して独占的な利益を固定的に確保しようとしてきた。それに対して、各位は、それとは、正反対の、自由に参入できて、生活権を保障しつつ、公正に運営できる、「公正市場」を構築しようと一貫して努力しておられた。これらは、経営の延長線上で「市場構築力」が人格の形成とともに、発展し、創造されてきたと考えられる。
公正な競争市場を構築するにあたって、多くの各位は、デザインを現代化しながら伝統産業の成果を開発した場合や、コ-ヒ-の生豆などを世界的規模で商品を供給する場合もある。
また、単に薬を売るという商行為だけでなく、健康情報におけるサ-ビス提供を行い、顧客との永続的な信頼関係を構築するなど、サービス供給の場合とは、微妙な差異がある。
しかし、基本は、あくまで、「生活者」であった。生活者は、生産者も、消費者も、ともに、「生活者」として、健康で、いきがいがあり、生活の経済基盤を充実させる点では、通底していた。
つまり、単なる商品・サービスの販売ではなく、人として、他人を思いやる、高い倫理性を持った、人格を高めた経営者が『排他的な利益追求主義』を克服した先には、「生活者として生きる個人や家族、子供たちがいる」という新たな発見であった。
ここには、人格を高める努力をする経営者と、生産者、消費者が、公正市場を媒介として、生活者の人間発達を見据えた「公正な市場」を「ともに」構築してゆくのであった*。

*この視点から、参考になる文献は、矢崎勝彦『信頼農園物語 内発的公共性をひらく人心のイノベーション』地湧社、2007年。

経済学における「経済人の仮定」は『排他的な自己利益の追求』を是認するのか

これまで、経済学を研究し、また、地域の場で暗中模索の「実践による検証」を試みてきた身としては、このような「学び」を「経済学研究の場」で生かしてみる、という試みを実行したいと考えることが多い。
すなわち、経済学という学術領域は「すべての人間を経済人とみなす」という大前提を置く。
経済人というのは、生産活動において、人間が行動する場合、行動を推進する動機は、ノウハウ、機械装置・建物・土地、エネルギーシステムなど生産に関する情報を知ったうえで、「利潤」をコストと比べて最大化すると見做す。そして、消費生活においては、購入する財の情報や自分の予算を知ったうえで、自分の効用=コストと比較した満足の度合いを最大化すると見做す。
しかし、このような大前提は、人間の『我執』を正当化しており、ある意味では、「利潤第一主義で生活者の目線を拒否する人間」あるいは「生活における利便性のみを重視し、環境や社会問題に配慮しない、人間性からみれば疎外された人間」を肯定することになってしまう。
しかし、経済学教科書の国際的な影響力は大きく、そう簡単に「定説」を覆せるものではない。
同時に、多くの経済学研究者は、「経済人の仮定」に疑問を呈した。
とりわけ、経済学に最も大きな影響を与えた、A. スミス自身が微妙な表現ではあるが、「経済人の仮定」を否定するかのような研究を残しており、彼は、「経済人の仮定」を肯定しているのか、あるいは、否定しているのか、といった論争までひき起こしてきた。
そこで、彼の「経済人の仮定」に対する議論を整理してみれば、「1776年、国富論刊行当時の主張における曖昧さ」や、「それにもかかわらず、彼が残した思想の先駆性から想定できる現代的な意味から見た『曖昧さの克服に関する展望』を得ることができる」のではないか。
このように愚考した次第である。
そして、「スミスの曖昧さ」の検討は、経済学教科書は、現在でも、経済人の大前提を学生に対して教育し続けているので、この傾向を是正する意味でも、何らかの貢献が可能である。(©Ikegami,Jun.2022)

 

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