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総合学術データベース:時評欄(82)ホ-ムペ-ジ用;池上惇「パブリック・ヒストリ- から学ぶ」

経営の学習から

2008年ごろからであろうか。当時は盛和塾と呼ばれていた、経営者たちの研修の場が大阪駅前にあった。丁度、社会人大学院大学を創設しようとして、募金活動を始めたころであったので、社長や会長などの各位とお目にかかり始めた。株式会社フェリシモの責任者、矢崎勝彦先生に、はじめてお会いしたのも、その頃であった。

先生は、「あなたのことは本を読ませていただいた。役員会でも勧めておいたよ」と話してくださり、ありがたいことに、募金にも応じてくださった。
そのとき、はじめて、「京都フォーラム」という名称の社会貢献組織が存在していたことを知ったのである。矢崎先生は、経営者教育に、一貫して、取り組まれてきた方で、わたくしも、ご協力を申し上げることになった。
以後、現在に至るまで、経営者の経営実践の交流会に出席して、本来は、助言しなければならないはずが、わたくしのほうが、もっぱら、学習の機会をいただいてきた。

今日の話題、「パブリック・ヒストリ‐」も、矢崎先生からお教えをいただき、非常に興味を持って、学習・研究するようになった。
まず、「パブリック・ヒストリ‐」のご紹介から始めよう。

英文・ウキペディアによれば、つぎのように紹介されている(訳文は池上による)。
「パブリック・ヒストリ‐は、細分化に特化したアカデミックな場の外部にあって、日常的に仕事をしている人々-これらの人々は、歴史を探求する際の基礎的な共通了解について多少なりとも訓練を受けてはいることが多いのであるが‐によって構想された広い範囲にわたる活動である。パブリック・ヒストリ‐の実践は、歴史的な遺産の保存活動、公文書館における科学的研究、伝承による歴史、博物館学など、関連諸領域に深く根ざしている。この領域は、1970年代後半から、アメリカ合衆国とカナダにおいて、益々、専門領域となりつつある。パブリック・ヒストリ‐の実践にとって、最も常識的な、共通の場を提供しているのは、博物館、歴史上有名な家、および、場、公園、戦場、公文書館、映画やテレビ会社、ニュ‐メディア、政府・自治体などである。」*

*https://en.wikipedia.org/wiki/Public history

この紹介においては、パブリック・ヒストリ‐は、いわゆる「歴史学」ではない、市民活動の中から生まれた、新たな学習や研究の領域である、との定義が可能であるのかもしれない。

パブリック・ヒストリ‐の発生時期をめぐって

ここでは、アメリカ合衆国、カナダで、1970年代後半に誕生したという。しかし、研究してみると、興味深い事実にも出会う。

例えば、「歴史的な遺産の保存活動」を最初に提起したのは、19世紀後半、ラスキンやモリスらの実践であった、との見方も成り立つかもしれない。
彼らは、当時のゴシック建築に注目し、これらを建造した職人たちが注文主であった王や貴族などの要望を超えて、装飾芸術を創造したこと。著名な画家たちが教会の天井画を描き、それを保存する市民活動の台頭に大きな期待を寄せていたからである。
彼らは、これらの創造的な成果に注目しただけでなく、これらの創造的な成果を「文化財保存のための市民活動」として組織しようとしていた。

このような市民活動は、ラスキンの場合には、19世紀の後半に提起されていた。彼は、主著、『ムネラ・プルェリス』の序文で、次のように、指摘している。

「1851年の冬、わたくしがヴェネチア式建築に関する著作の資料を集めていたときのこと、聖ロコ講堂の天井に描かれたティントレットの天井画のうち、三枚がぼろぼろにわれて、小舞や漆喰と、ごちゃ混ぜになり、オ‐ストリア軍の砲弾三発が命中してできた裂け目のまわりにぶらさがっていた。」

当時、ラスキンは「ティントレットの絵画」を人類の遺産として最も高く評価していた。
この惨状を見て、ラスキンは、ヴェネチア市における財政状態の悪化を考慮しつつも、文化財を守る市民意識の重要性、市民活動の重要性を示唆した*。

*J. Ruskin, Munera Pulveris, Six Essays on the Elements of Political Economy, George Allen, London, 1907, Preface, 1871, pp. ⅸ‐ⅹ. 木村正身訳『ムネラ・プルウェリス-政治経済要義論』関書院、4-5ぺ‐ジ。

また、ウィリアム・モリスは、小宮弘信氏によれば、最初の講演、『生活の中の芸術The Lesser Arts』において、次のように述べていた。

「(モリスは)世界は芸術以外のことで忙しくし、芸術を更に低くおとしめたと、装飾芸術が衰退していった過程を示している。古代ロンドンの人々は白く塗られた家に住み、広大な川の流れが美しい庭園を通り抜けていたが、現在のロンドンは大中小のあばら家で覆われてしまった。この芸術の生気のない空白は、今でも想像することは難しく、この状態はしばらく続くだろう。しかし集められた雑草が燃え尽きた後、その野原は実を豊かに実らせるだろうと(モリスは考えた)、衰退の後に、新たな誕生が芽生えると新しい芸術の復活をモリスは示唆する。」(カッコ内は池上の補足)

そして、「装飾芸術の今後の展望」において、「どうしたら新しい芸術が生まれるかということを4つの手段で示している。」とされ、それら、4つとは

① 職人と芸術家が協調し合うこと。
② 自然や歴史に学ぶこと。
③ アート・スクールでは芸術の歴史やデッサンを教え、心の力と、目と手の力の育成を行うこと。
④ 消費者、販売者、生産者がそれぞれマナー持つことであると述べている。」
この四つなかに、②自然や歴史に学ぶことが指摘されていた*。

*小宮弘信「ウィリアム・モリスの最初の講演『The Lesser Arts』」国際文化政策研究教育学会『国際文化政策』15号、掲載予定論文(2022年9月原稿完成)

このように見てくると、イギリスでは、すでに、19世紀後半から「パプリック・ヒストリ‐」が市民活動として提起されていたことがわかる。
今回は、日本社会におけるパブリック・ヒストリ‐の再発見を筆者が模索する中で、大正デモクラシ‐の大阪市に注目してみた。

(©Ikegami,Jun.2021)

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