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総合学術データベース:時評欄(81)ホ-ムペ-ジ用;池上惇「戸田海市と河上肇」

日本における民俗学の誕生と農村研究の深化

日本社会における民話や祭り、あるいは、風俗・習慣などの研究を開始したのは、日本民俗学の大きな貢献である。このような研究活動の原点となったのは、柳田国男『遠野物語』であった。

1910(明治43)年、自費出版された彼による自筆の原稿は、現在、原本遠野物語編集委員会編『柳田国男自筆 原本 遠野物語』として、岩波書店から、2022年に出版されている。この書の学会における評価については、赤坂憲雄教授の「はじめに」に詳しい。

この書における特徴の一つは、アイヌ文化についての言及があることである。

「この地大昔は山中の湖なりしに水人間に流出でて自ずから一郷を為せりと 遠野のト-はアイヌ語にて湖のことなり 山川の猿ケ石川に落ち合うもの甚だ多く 俗に七内八崎 ななないやさき と称す ナイはアイヌ語の渓谷にて奥羽の地には何内という地名多し」*の記述がある。

*原本遠野物語編集委員会編『柳田国男自筆 原本 遠野物語』岩波書店、2022年、6ペ-ジ。

当時、柳田は民話を採録するにあたって、言語の持つ意味をアイヌ語と関わらせて検討した跡があり、日本人の発祥における経過にも強い関心を持っていたことがうかがえる。

大正期における都市研究の試み

さらに、明治の末期から大正の時代にかけての時期は、日本にも、都市研究の時代が訪れたことを示していた。

当時の都市と言えば、言うまでもなく、東京市である。首都であるからには、行政の中核であった内務省としても、強い関心を持たざるを得ない。このような雰囲気の中で、注目を浴びたのは公衆衛生の分野であって、後に、東京市長となる後藤新平なども、この分野の専門家として台頭した*。

*越澤明 『後藤新平―大震災と帝都復興』筑摩書房〈ちくま新書〉2011年参照。

だが、東京市は首都の制約があって、時代の先端を行く実験の場として選ばれることはなかった。当然である。
これと対照的に、大正期の大阪市は、「自由な実験の場」であり、当時の中央集権システムの下にあっても、「自由都市」として、日本都市行政における「実験の場」となり得た。とりわけ、大正デモクラシ-と呼ばれた時期には、日本初の「文化が開花する都市社会政策」を実験する場として登場するのである。

大正期のはじめごろ、大阪市は「築港をめぐる暗い雰囲気」に包まれており、公正な秩序を欠く状況にあった。
当時の都市行政を担う市長を選出するには、大阪の名望家たちが集まる推薦組織があり、そこで、推薦されたものが市長となるシステムであった。が、度重なる市長辞任の連続後に、内務省任命の警察部長を務める、池上四郎が推薦組織の多数派から推薦された。

池上四郎は、当時の主流派であった薩長の派閥ではなく、戊辰戦争で官軍に敗北した会津藩出身、清廉潔白で知られた人物である。「築港をめぐる暗い雰囲気」を公正な秩序によって一掃し大阪市における都市行政に希望をもたらすものとして推薦されたのであった*。

*池上四郎が市長に推挙された経過については、前大阪市長池上四郎君彰徳会(泉仁三郎代表)編著『元大阪市長池上四郎君照影』(1941)(昭和16)年(非売品)初版、復刻版=池上正道:発行、2001年(非売品)、11ページ。

新市長は、築港工事をいったん中断した。同時に、大阪市の行政を担うにあたって、都市社会政策を研究する研究者の意見を重視する姿勢を取った。いわば、都市行政を科学や学術の目を通して洗練化しようとしたのである。

研究者を市長に推薦する立場にいたのが、当時の京都、法科大学教授、戸田海市であった。戸田は、社会問題の研究に関心を持ち、都市における貧困問題を労働時間短縮法制化など、イギリスなどの先例に倣って解決しようとした、日本最初の人物であった。
彼は、関一東京商科大学教授を高級助役として市長に推薦した。関一の日記には、このことが記されている*。

*関一研究会編『関一日記』東京大学出版会、1986年参照。

都市行政の先導試行-大正期、大阪市の実験-

戸田や関は、大阪市の行政に対して、助言や、担当者としての提言を行いながら、日本初の「中流」を生み出す構想を実行に移していった。
池上四郎も、警察官として各地の貧困と向き合い、それを解決するために苦労してきた経験があったので、助言に従いつつ、試行錯誤ながら、大阪経済界や皇室関係の寄付金と、電力公営化など地方公営企業の収入によって、財政基盤を拡充した。

そして、民間投資への共通基盤として、公営の工業技術研究所を開設し、「大阪に行けば、自由な営業と起業ができる」との評価を得た。当時は、国営工場建設の時代であったが、実際には、経営が苦しく、大阪での産業発展は、貿易振興を含めて経済界に大きな魅力を提供し得た。
さらに、財政基盤が充実すれば、教育公務員、福祉関係公務員の待遇改善が可能となる。

この動きに、民間技術者やデザイナ-たちに経営者からの公正な待遇が期待されるならば、市民お中に、中流への希望を生み出すことができよう。
そして、社会事業や公設小売事業、職業教育や失業対策などを通じての貧困対策を通じて、「中流社会」実現への方向を目指したのである。
とりわけ、戸田は、義務教育や職業教育を重視するなかで、市民の教養水準を高めて「スタ-トラインの平等」を達成する政策は、文化や学習水準の習得に大きな影響を与え得ると考えていた。

学術界における戸田海市と河上肇

戸田と河上は、京都大学における同僚であった。河上は、日本における社会政策学会で、研究を共にし、戸田の著作全集を、後に、大阪商大初代学長となる、河田嗣郎とともに編集した。
当時の河上は、都市社会政策や、社会改良政策に大きな関心を持ち、後に若手研究者であった、櫛田民蔵の批判によって、名著、河上肇『貧乏物語』を絶版にするまでは、研究における志を同じくする同僚であった*。

時代は、かれらの学術的な立場を変えたとはいえ、両者の都市社会政策に対する関心は、共通するものがある。
当時、戸田は、大阪市という「実験の場」を持ちえたのに対して、河上は別の道を歩んだけれども、彼らの関心が一致する面があったことは、学術上、非常に興味深い。

*河上肇『貧乏物語』岩波書店(文庫)、大内兵衛解題、1947年初版、2008年70刷改版、序文参照。

(©Ikegami,Jun.2021)

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