文化政策・まちづくり大学

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総合学術デ-タベ-ス:個人別研究内容(6)広瀬滋 先生;明日のための生活建築学 :内容紹介;池上惇 

生活建築学の創始者-広瀬滋先生

ここに掲載するテキストは、広瀬滋『明日のための生活建築学』と題されている。

建築学には、多様な領域があるが、どちらかといえば、建築の目的に応じた分類によるもの多い。例えば、住宅建築学とか、スポーツ施設建築学、芸術施設建築学、教育施設建築学、大学建築学などである。

しかし、広瀬先生が提起されている、新領域は、「人間が生命・生活活動を営む場」をつくる建築学である。

人間が人間として生きてゆこうとすれば、健康で、文化的な生活空間が必要である。また、それは、単なる消費活動の場ではなくて、かつて、日本の農家や職人の工房のように、仕事の場であるが、同時に、消費生活の場でもある。

最近は、コロナ禍の影響で、テレワークが普及し始め、「家で仕事をする」人々も増加している。生活建築学は、仕事と生活を自宅で実行する生活スタイルを先取りした議論であるといえるであろう。

多様な建築学の諸領域の中で、「住宅建築」は特別の重要性を持っている。

第二次世界大戦後、多くの経済学者が「大不況からの脱出」という大事なテーマに挑戦した。そのなかで、I.ド-マ-という当時のソ連から亡命してきたアメリカの経済学者が、「住宅建築需要は景気の変動に対して不況期は景気を回復させ、好況期には過熱した経済を適度に抑制する傾向があること」を実証した。当時は、「ド-マ-の反循環理論」として有名であった。

いま、コロナ禍の影響で、景気は最悪の状況にある。

このようなときこそ、コロナ禍に応答できる新たな建築需要が拡大して、景気を回復させてくれることが切実に期待される。コロナ禍は、世界に蔓延した「超過密経済」が新型ヴィルスをまき散らし、爆発的な拡大を引き起こすことを示した。

これに対処するには、いつになるかわからないワクチンに期待するよりも、「過密でない、適切な距離をとった、ひとりひとりの仕事・生活空間を尊重しあう姿勢が求められる。これまでは、「過密で人を集めること」で経済が成り立った。東京一極集中など、その典型である。

しかし、「過密でない」住宅となれば、家族ひとりひとりの衛生的な空間が必要となり、洗面所やトイレも「ひとりひとりのために」増やす必要がある。

さらに、ひとりひとりの生活空間には、家庭内や外部との「リモート」による通信手段や、急増する文字情報を蓄積して活用できる場が必要である。

それだけではない。これまでは、仕事があり、生活の場があったが、いつ、どのようなことが起こって、突然、職を失い、住む家がなくなるか、わかったものではない。

これからは、生きてゆくために、どのような学習をするべきなのか。そして、物事を深く考える習慣を身につけつつ、仕事や生活を研究してゆく姿勢が不可欠となろう。

そうなれば、ひとりひとりの生活空間には、ひとりひとりのための学習・研究の空間が必要である。子供、大人を問わず、学習・研究の場には、オルガン、ピアノ、カメラや望遠鏡や顕微鏡、初歩的な実験機器も必要かかもしれない。

食文化や衣料文化も、センスをよくし、質を高めることになる。

そんな、贅沢な、などとは言えなくなって、だれもが、このようなことを考えざるを得ない時代が来るのではないか。そして、このような動きこそ、景気を支えるのである。

広瀬先生が生活建築学を構想された発端は?

広瀬先生は、先生が主宰される建築研究所を訪れる方々、とりわけ、これから、自分の家をつくろうとされている方々の相談に応じて、「あなたは、自分や自分たちの家を、仕事と生活の場として、どのようなものをお考えですか。」と、問いかけられて来た。

先生によれば、「‘生活建築学’という研究分野を想い描く発端」となったのは、施主と呼ばれる「住まいの設計を依頼する人」が、どのような生活のありよう(生活シナリオ)を構想されているかを知りたい、というご要望であった。

普通、住居を購入しようとする場合には、すでに、完成されたモデル・ハウスを見せてもらって、わずかばかりの修正・改築を行って入居することが多い。端的に言えば、独立家屋にせよ、マンションにせよ、既製品を買うのであり、自分の生活の仕方から考えて、生活の仕方に合わせて住宅をつくる、という習慣はないのが普通である。

ところが、広瀬先生のご経験では、設計を独自に依頼すると高くつくからという理由で、既製品の中から選ぶということが多いそうである。この時には、ご本人や家族の生活を、どのようにしてつくりあげてゆくのかは「スキップ」されてしまう。

さらに、では、本当に、既製品のほうが安いのか。実は、そうではない。

設計者に依頼して、自分の生活の仕方に合わせて設計してもらい、生活スタイルに合わせた住宅を建築すれば、高くつくのか。

広瀬先生によれば、土地面積や建築工法、予算などによる制約はあるにしても、コストはかわらないか、むしろ、安くつく場合が多いということである。

住まい手の生活スタイルを建築前に想像して構築する力量とは

それならば、生活建築学の原点は、「住まい手(施主)の生活のあり様」が、どのようなものかを、ともに、考える場が必要となる。

施主、設計、工務などの専門家が相談や協議の場を持って、施主の生活・仕事・人生の歩みや方向性など、多様であるとともに、個々人の健康やいきがい、友人や隣人とのつながりなど、生活の質にかかわる、一つ一つの問題をクリアしてゆく必要がある。

そして、家族としての人間的な発達の場を生み出し、ひとりひとりが異なった相手の個性から学びあい、育ちあえる場を構想することになる。

健康を維持し発展させるに必要な、人工空間と自然空間の調和や、衣食住との関連性や、生活空間におけるデザインなど、考慮すべき点が多い。

さらに、これからの、社会の在り方を考えてみると、例えば、仕事をするにしても、生活するにしても、学習や研究の必要性は、益々、高まってゆく。個々人がどのようにして学習の空間を確保するのか。共通の交流空間は、どのようなものか。

さらには、コロナ禍や、高齢化で問題となっているように、介護の現場と、普通の生活空間をどのような区別してゆくのか。介護となれば、洗面所やトイレをそれぞれの空間に配置することも必要になってくる。場合によれば、入り口も、二か所、必要かもしれない。

防災や避難などの視点も重要である。

地価が安いからと言って、危険場所には立地できない。

 

生活シーン(情景)を端的に表現するには
        -感じて学ぶこと-

建築設計は、住宅をはじめ人々のいろいろな願望、目的をハードな具体的な建築物にまとめ上げる仕事である。

「そのためには個々人の生活環境・背景に対応する機能性や工学的条件を解決する力量が必要である。又同時に、そこに展開される人々の多様なモチベーションや生活シナリオを如何に内包することが出来るかが求められる。」

これが、広瀬先生の基本的なご姿勢である。

そのとき、生活にかかわる想像力や構想力を育てるには、どのようにすればよいのか。

広瀬理論では、何よりも、「感じて学ぶ」生活習慣を身につけること。

これを推奨される。

人間だれしも、本来は、仕事や生活の経験の中で切実に感じたことから、「生きてい行くうえで解決すべき課題」を発見してゆく。

例えば、コロナ禍で、「テレワーク」をせざるを得なくなれば、「今の家の中で、仕事のできる場があるだろうか」「家族が生活する場が狭くなるのではないか」。これをどう解決すればよいか。を考えざるを得ない。

生きる上での課題を感じて、これを解決しようとする努力こそ、生活を向上させる第一歩なのだから。

これを、「生活が突き付けてくる現実から感じて学ぶ」という。

これは、「経験からの学習」と言い直すこともできる。いわば、自分の切実な経験と、学習の間には、「感じて学ぶ」ことがあってこそ、これまでの惰性や悪い習慣にとらわれずに、課題と正面から向き合い、解決策を真剣に考えて模索することになるのだ。

ところが、大抵の場合、切実な課題に直面しても、「なんとかなるさ」で済ませてしまうことが多い。結果は、家族に我慢をお願いして、辛抱をおしつけてしまうことに終わる。

これでは、生活の改善は覚束ない。

生活を改善するには、生活美人としての生き方を追求すること

では、切実な課題に向き合うとき、生活を改善する方向は、どのようにすればよいのか。

例えば、人が理想とする生活があるとすれば、それは、どのような生活なのだろうか。

広瀬先生は、ここで、「生活美人」という理想のイメージを提起されている。

これは、「生活を美しくする人々の生き方」を構想してみることである。それも、夢ではなくて、現実と経験を踏まえた「生き方」である。

「こんなこと(行為)をしていて良いのか、この手順、やり方が正しいのか、こんな対応(言葉使いや身のこなし)で良かったのかと、気になる感学意識が去来する。」

「生活を美しくする」という意味には、二つの意味がある。

一つは、自分自身の生き方を美しくすること。つまり、惰性に流されないで、課題に向き合う誠実な姿勢、深く考えて行動する人、信頼できる人として生きるなどの、ことである。

もう一つは、生活環境をよくする人。清潔な環境と美的な要素を生活の中に取り込んで、「生活の芸術化」や「生活の文化力を高める人」となること。

この二つである。

これらは、19世紀の後半に世論を動かした、イギリス人、ラスキンやモリスが提唱したものであった。

本気で、家庭内に自分の居場所をつくろうとすれば、自分の仕事場だけでなくて、妻が学習する場、子供たちが学習する場、親子で交流し議論する場など、それぞれと、共通の、学習権を確保する空間を生み出す必要がある。

互いに譲りあいながら、それぞれが必要とし、共通に必要とする場を生み出さねばならない。それには、設計、建築、デザイン、まちづくりなどの専門家の意見も聞く必要がある。

また、このような改善は、自分たちのことでもあるが、同時に、社会的な要請にこたえたことでもある。資金を調達するにも、自分の貯金だけでなく、公的な金融や利子補給なども必要である。これらは、社会とのかかわりも持っているから、場合によっては、隣近所の方々との相談も必要になる。

「人は、生活のあらゆる場景(シーン)に生きて、多様な経験の中で、感学することで、感性を記憶に換えて、生活建築力への変換を図る。一つの感動の瞬間から、今までの自分の(惰性に落ちりがちな-引用者)生活習慣を改め、新たな行動を始める。」

広瀬先生のご総括である。

生活建築学の概要について

広瀬先生は、建築には以下の種類があることを示されている。

1.住むための建築、
(住宅、マンション、社宅、アパート、農家、別荘、下宿屋、ホテル等)

2.生産のための建築、
(工場、作業場、発電所等)

3.生産品の流通その他の企業のための建築
(駅舎、倉庫、銀行、郵便局、事務所、百貨店、スーパ、コンビニ、市場等)

4.政治、支配、治安のための建築
(議事堂、公官庁、裁判所、警察署、刑務所、消防署等)

5.教育、文化、厚生のための建築
(学校、保育所、体育館、図書館、博物館、美術館、病院、放送局、社寺・教会劇場等)

これらを念頭に置けば、自分の住宅をつくるにしても、それは、多様な建築物との関連が問われることになる。例えば、この地域の学校は少人数教育であるのか。ないのか。

もしも、マスプロ教育ならば、どのように変えてゆけばよいのか。

多くのことを考える必要が出てくる。

これらの建築には、それぞれに、「建築計画・意匠」「建築構造」「建築環境・設備」「建築設計教育」などが必要である。

「ここで、注意すべきは、「但し、日本の建築学は理工系学部で主に教育、実施されているため、欧米に比べて科学・技術教育に比重が掛り、建築が内包しなければならない人間の心理モチベーションや感性のシナリオ化、芸術的側面など建築(ビルデイング)と使用者としてのヒトとの総体的なあり様を問う原点の学術研究がその育成過程において少し軽んじられている傾向がある。

その結果、今日では日本の建築学は工学的には安全、美観、性能、機能面など実際・実用面において高いレベルに達しているが、当然ではあるが、現実に個々の建築(建築種類2.3.4.5)が建設される場合、発注者(資本家、経営者など)や専門家(建築家、建築技術者)と建築を実際に使用する生活者(ユーザ)の立場の人達との間には、当事者と第三者、本音と建前の様に建築に関する願望、目的等の理解度や優先度にはレベル差が生じる。

又、個人の住宅においても私が長年、建築設計業務に携わってきて問題だと思うことがある。それは、建築が余りにも総合的な知識に基づく判断、決断を必要とするため、生活者(ユーザ)は専門家に任さなければと、受け身になり、ユーザの哲学、心理、感性など内面的願望を建築に結びつける情報を専門家に的確に発信しない、出来ないことである。対峙する専門家がユーザの当面する建築の主題やその建築で展開される生活シナリオをイメージしたり、モチベーションの真意を的確に読み取る力量がなければ、結果として専門家の建築作品は完成するが、ユーザの生活シナリオと派生する色々な想いをフォローすることが不完全となる。」

ここから、新たな建築学としての「生活建築学における生活建築力」を市民が身につけること。これによって、市民生活の新たな世界が開けるとの展望が語られる。

この新たな建築思想から学ぶこと。この価値は、非常に大きいと考えられる。(©Ikegami, Jun 2020)

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