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池上・総合学術データベース:時評欄(21);職人力とは何か―岩田均先生との対話から

職人力とは何か

この重いテーマについて、2019年10月13日、市民大学院の「モリス翻訳研究会」で、小宮弘信先生のモリス研究に関連して、池上が職人論をお話しする機会があった。

岩田先生は、私の話を「池上先生レクチャー」として記録していただき、対話の基礎とされた。感謝を込めて、その内容をご紹介する。

岩田・職人力を、どのように理解するか?

・若林恵『さよなら未来』(2018岩波)において、夏目漱石の短編『夢十夜』の中の運慶の話が取り上げられている(第六夜)。「運慶が仁王像を彫っている。その姿を見物していた自分は、隣の男が「運慶は、木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけだ」と言っているのを聞く。自分でも仁王像を彫ってみたくなり、家にある木を彫り始めるが、何度やっても仁王は出てこなかった」(wiki引用)という話しである。

・若林がものづくりの本質を問う中で、職人論を取り上げたのは時代の要請でもあろうか。職人の創作能力の源泉を現代人は理解できずに馬鹿げたもののように片づけてしまうことさえある。

漱石は、この事実を直視するよう読者に呼び掛けているようだ。

岩田・素材の中に生きているもの

素材の中に全てが含まれていて、熟達した名人のみがそれを見いだし引き出しうるので、どれほど職人の心と技を磨くか(固有価値を生かすノウハウの水準)によって(モノづくりの価値は)決まってくる、と考えてよいのではないか。

・ものづくりには、技術力で加工するだけでなく、素材の本質をつかみ、それを表現する力が必要である。

指先が勝手に動く、技を磨き、心を磨く。心を込める、素材の声を聴く、命を吹き込むなどと、日本では様々に表現するが、職人能力をいかに表現するか。

池上・尊徳思想における至誠と科学的認識

日本の思想の中では、二宮尊徳が、幕末期に、「心田を耕す」という言葉を残している。当時は、領主の課す重税で、農民が苦しめられ、高利貸しから借金をして、税を払うが、それでも足りず。希望を失って、酒と博打に走るものが多数出たとされる。

これを目の前にして、尊徳は、地元の合意(領主を含む)があれば、自ら土台金を出し、これに、地元、富裕層の資金や土地を加え、領主にも減税を勧め経費を節約させて資金を提供させ、農民には、縄綯いの成果を買い上げて協力させた。地域ファンドの形成である。

この資金体制を背後にもって、尊徳は、「心田を耕して、至誠・勤労を行う」ように、農民を説得した。酒や博打に溺れても、問題は解決しないから、至誠をもって、勤勉に働くこと、これによって、自然の仕組みや農産物が収穫増になる方法を科学的に理解し、創意工夫して、篤農家となることを勧めた。

「心を耕せば、自然がみえる。災害も予測できて、備えもできる。収穫を増やす方法も発見できる。これによって、豊かになることができる」と考えたのである。

職人が「心を込めて仕事をする」ことによって、よいものができる、という表現も、尊徳のいう「心田を耕して、土地を耕す」という表現も、相通じるものがある。

とりわけ、尊徳には、心田を耕せば、科学的に観察ができて、自然の動きを知り、予測し、土地に肥料をやって収穫を上げるとか、さまざまな、創意工夫やイノベーションが可能になるというのである。

このような、「心を込めると自然や素材が見えてくる」「科学的な観察ができる」「新たな技術を生み出して、よいものができる」などの、「心と科学」「心と技術」の関係が浮かび上がってくるのである。

禅の教えでは、例えば鈴木大拙の日本的霊性論として、「心を空にして、外界の風を入れ、それまでは、認識できなかった、あらたな知識や真理をわがものとする。」という考え方がある。これも、職人の力量に通底するものを感じさせる。

以下は、日本の思想と響きあうものをイギリスの思想の中に発見しようとする試みである。
(Ikegami, Jun ©2019)

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