文化政策・まちづくり大学

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時評欄(10)池上惇「ヒトとモノとの相互進化-楽しい仕事と‘疎外された労働’の矛盾を克服するには」2019年4月17日)

仕事の楽しさと苦しさ

日々、働き、生活している市民は、「この仕事が楽しければ、どれほどか、幸せだろう」と、いつも、考えている。

その一方で、市民の過労死に象徴される、密度の高い、長時間労働や過労、ストレス、そして、うつ病の発症や中年にも多い高血圧。その苦しさや辛さは、例えようがない。

本来、人間は、楽しく、健康で生きがいのある人生を歩むはずなのに、なぜ、このような、正反対のことが起こるのであろうか。

経済学や社会学には、貧困論とか、経済格差論という研究の分野があって、長い間、この深刻な課題に取り組んできました。

今日は、最近、出版された企業レポートにおける問題提起を基礎に、この問題を考えてみたいと思います。

モノとヒトの相互進化-身体性と技術的変化-

デザイン制作企業、GK京都から、「GK Report」最新号をお送りいただきました。その特集が「モノとヒトの相互進化」となっていました。

拝読していますと、「人間の生命や生活の活動やリズムあるいは機能など、発達した生命体としての、人間の運動能力や知覚にかかわる「身体性」というものがあります。

この「身体性」は長い人類史を刻んできた、人間が自然から学びつつ、時を超えて身につけてきた、「変わらぬもの」であること。朝起きて昼に働き生活し、夜は眠る。このリズムは、変わらない。二本足で直立歩行し、背骨で脳を支え、手を使って職人的な仕事をして、神経を使って、脳に仕事の結果を伝達し、脳に記憶を蓄積する。新たな経験をして、それを記憶と照合し、新たな判断を下して、創造的な仕事をする。これらの身体の機能も人間である限り、変わらない。

これに対して、人間が生み出したテクノロジーの変化は凄まじいまでの独自の速度やリズムを持っている。「変わるもの」であること。

それは、人の持つ生命のリズムや身体機能とは、違っている。例えば、自動車の導入は、人の生命が持つリズムに変化を求め、適応を余儀なくされるが、自動車の活用による足の筋肉の衰えは避けがたい。人は、これを補って、足の筋肉を発達させようとすれば、散歩や登山、陸上競技などのスポーツの習慣を導入せざるを得ない。

さらに、自動運転の時代ともなれなれば、人は目を使って、車間距離を保つ能力や、突然現れる歩行や自転車を認知して、即座に反応し、障害を防ぐ能力をも失ってしまうかもしれない。また、地図を読む能力をも失う可能性がある。これらを補うには、登山の体験などによって、危険を察知しつつ、自分や他人の安全を保ち、リスクや不確実性に備える学習の機会を持つこと。地理学の学習など、新たな学術領域の学習や研究が必要となる。スポーツにおける練習中の事故も絶えないが、これらの障害を事前に察知する力量や、事故への備え方を創意工夫することは、人間が、自由に選択しうる生き方の幅を広げると思われる。

人間が生み出したものによって人間が支配されないためには

人間は、自分たちで技術を生み出し、機械を生産した。が、自分の生み出した人工物のリズムによって生命のリズムや正常な機能を奪われる可能性がある。奪われてしまうと、強いストレスを経験して、生命のリズムを損ない、不眠症やうつ病になる可能性がある。粉塵の多い仕事では、肺の機能が障害を受けやすい。

では、生命のリズムや機能を維持し発展させ、機械装置など、人工物との関係の中で、生命のリズムや機能を損なわずに適応するには、どうすればよいのか。

この問題を最初に考えたのは、イギリス人、19世紀に生きた、カーライル、ラスキン、モリスらであった。

今日は、ヒト(生命の身体性)とモノ(技術の生み出す独自の速度やリズム、機能)の間の矛盾を指摘して理論化した、社会学者、マックス・ウエーバーの官僚制論を検討し、矛盾を克服する方向性を示した、ラスキンらの思想を一瞥する。(池上惇・©Jun Ikegami 2019)

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